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【港北の今と昔③】日吉と慶應義塾の歴史
カテゴリ:株式会社日本ハウジングスタッフブログ  / 投稿日付:2022/09/08 17:23

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港北区の歴史を辿る「港北の今と昔」今回は「日吉」がテーマです。

港北区の「日吉」と聞いて多くの方が思い浮かべるのは、慶應義塾大学のある学生街でしょう。また、日吉駅は東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンラインの3沿線が利用可能で、都心にも横浜方面にもアクセス抜群の場所でもあります。

そんな日吉はもともと山林に覆われ田畑の広がる農村そのものでした。


◆日吉駅の開業
1926(大正15)年、東京横浜電鉄(現・東急東横線)の丸子多摩川(現・多摩川)駅から神奈川駅(反町駅と横浜駅の間に存在していた駅、現在は廃駅)の間が開通するとともに、「日吉」駅は開業しました。

この工事のスタートが日吉であったため、日吉駅の近くには「東急電鉄発祥之地」の記念碑があります。

ちなみに、多摩川の新丸子駅から日吉駅に至る線路は水田を埋め立てて敷設したもので、その埋め立てに使われた土の多くは日吉の丘のものでした。


◆住宅地・日吉台の開発
東京横浜電鉄は日吉駅周辺で住宅地「日吉台」を開発します。

この「日吉台」は同時期に分譲された「田園調布」と同様に、イギリスの経済学者ハワードが提唱した「田園都市」の思想を受けて開発されたもので、現在も残る放射状の道路は当時の計画によるものです。

この「日吉台」ですが、1923(大正12)年の関東大震災から復興が進み、他県に避難していた人が都心や都心郊外に戻ってきたことが相まって、都心から遠い日吉は住宅地として全く売れない状態でした。


◆慶應義塾の誘致
大正時代の中頃から学生数が増大し、三田キャンパスだけでは手狭になっていた慶應義塾一部移転を昭和初期から検討していました。

そこへ五島慶太氏(東京横浜電鉄代表、後の「東急グループ」創始者)は、1928(昭和3)年、日吉台の土地約7万2千坪を無償提供すると申し出たのです。

「東京急行電鉄50年史」によると、この頃の地価は1坪(3.3㎡)=10円。
つまり72万円の「寄付」ということになり、当時の年間運賃収入51万円を遥かに超えています。

小田原急行電鉄や箱根土地株式会社などからも名乗りがありますが、慶応義塾はこの五島氏の申し出を受け、日吉の地に購入分・借地・無償提供分を合わせ、約13万坪を確保。

1934(昭和9)年に慶應日吉キャンパスを開校させました。実測で約43万㎡の大キャンパスです。


日吉は「慶応ブランド」によって一躍人気となり、大学の移転前後で、分譲地の地価は2.5倍に高騰しました。

また、五島氏は慶応だけではなく、東京工業大学、日本医科大学、東京府立高等学校(後の都立大学)、東京府青山師範学校(後の学芸大学)に対しても移転支援を行い、東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていきました。


◆まとめ
山林に覆われた農村であった日吉が学園都市として発展を遂げたのは、一人の実業家の手腕によるものでした。

来年から相鉄線との相互乗り入れ直通運転も開始され、ますます交通利便性が向上する日吉の街が今後どう変わっていくのか楽しみですね。

※参考文献:『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)他

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