ホーム  >  大倉山の不動産・株式会社日本ハウジングのブログ  >  株式会社日本ハウジングスタッフブログ  >  【港北の今と昔④】太尾から大倉山へ

【港北の今と昔④】太尾から大倉山へ
カテゴリ:株式会社日本ハウジングスタッフブログ  / 投稿日付:2022/09/28 10:47

いつも日本ハウジングのホームページをご覧いただきありがとうございます。
港北区の歴史を辿る「港北の今と昔」今回は「大倉山」がテーマです。

大倉山駅は当初、太尾町の町名から名付けられた「太尾」という駅名で、1926(大正15)年2月14日の東横線開通と同時に開設されました。
(その6年後、1932(昭和7)年4月9日の大倉精神文化研究所のオープンに合わせて、「大倉山」駅に改称します。)

◆太尾の由来
そんな「太尾」の地名は、地形から名付けられた歴史の古い地名です。師岡方面から鶴見川の手前まで続く丘陵部分が、動物の太い尾のような形に見えたことから「太尾」と名付けられたといわれています。

 

昔の地図を見ると、縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で、半分はリアス式海岸の体を成していました。綱島に関しては、本当に「島」だったことがわかります。

 

◆水害の多かった大倉山
大倉山地区は港北区域のほぼ中央に位置しており、西は鶴見川に接しています。

治水対策が施される以前の鶴見川は氾濫を繰り返しており、別名「暴れ川」と呼ばれていました。

昭和13年の大水害をはじめ、大倉山はとくに水害の多かった地域です。これは東横線沿線の中でも開発が遅れた理由とされています。

◆大倉山の発展
東横線の開通と綱島街道の整備により、人と物の流れが徐々に変化していきます。昭和30年代ごろには、工場が増えて社宅が次々と建てられるようになります。

1978(昭和53) 年には、区役所総合庁舎が菊名から現在の大豆戸町に移転したことから、大倉山駅がその最寄り駅となりました。

やがて狭い道路は拡幅され、1984 (昭和59) 年に東口の商店街がレモンロードとなり、 1988(昭和63) 年に西口商店街がエルム通りへと改装されて、近代的な商店街、高級住宅地へと変貌を遂げました。

◆町名の変更
現在の大倉山一丁目から七丁目も元々は太尾町といいましたが、2007(平成19)~2009(平成21)年にかけて町名変更されました。歴史ある「太尾」の名を残そうと、町名変更には反対の声も多々あったそうです。

2014(平成25)年には、大倉山駅や太尾公園などを含む「太尾地区」が「大倉山地区」と名称を変更しました。

◆まとめ
「太尾」駅が「大倉山」駅に改称してから今年でちょうど90年。太尾神社や太尾小学校をはじめ、大倉山には今でも至る所に太尾の名が残っています。

町の歴史を学んでいくと、また新たな一面を知ることができ、愛着が増すものです。

これからも大倉山を中心に港北区の歴史を掘り下げていきたいと思います。

※参考文献:『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)他

ページの上部へ